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京都府の観光情報

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京都府

伊佐家住宅

伊佐家住宅
2,600平方メートルの敷地にあるこの建物は、何代にもわたって庄屋(村の長)を務めた伊佐家の先祖代々の住宅です。1975年に主屋が重要文化財に指定され、1980年には5つの蔵、木小屋、普請文書、古図、宅地が追加指定されました。 主屋は1734年に再建されており、江戸時代(1603年-1867年)中期のこの地域特有の住宅建築のよく保存された例となっています。特別に厚い茅葺きの屋根や、通常は公家や武士の家にしかなかった赤い土壁、大きなかまどである「大くど」を備えた広い台所、そしてたくさんの部屋はこの建物の特徴です。これらは、庄屋の務めを果たすためにとても重要なものでした。 主屋の南側には、かつては賓客を迎えるために使われていた、家の格式が一目で分かる木製の式台が備えられています。賓客はこの式台を上って玄関の間へ入り、間もなく大きな仏壇のある控えの間に入り、その後、彫刻が施された木製の欄間や美術品を展示するための床の間と違い棚などがある奥座敷に通されます。 その他にも、村の年貢米を保存するための二つの大きな蔵や、神社やお寺で多く見られるものの様な、高い所にある、屋根付きの渡り廊下など注目すべき建造物や特徴があります。かつて屋敷を囲んでいた堀の跡が南側にあります。

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京都府

相槌神社

相槌神社
相槌神社は、その水が優れた刀剣を作るのに適しているとされる神社脇の井戸があることから、刀作りと強く結びついています。平安時代(794~1185年)後期には、有名な刀鍛冶である五郎太夫安綱と三条宗近が、相槌神社の隣にある井戸の水を使って刃を鍛造したと言われています。その中で最も有名なのは髭切と膝丸で、この2本の刀は、歴史を通じて多くの英雄的戦士を生み出した源氏の宝物と見なされています。神社の伝説では、商業と農業の神である稲荷が、五郎太夫安綱の刀の鍛造を助けるため現れたとされています。 刀が無事に完成した後、この稲荷を祀るため、井戸の隣に相槌神社が建立されました。相槌神社の井戸には、江戸時代(1603~1867)に石が敷き詰められ、そしていつ頃かは不明ですが、神社の銘板に刀工の三条宗近についての記載が加えられました。相槌神社は1710年まで石清水八幡宮によって管理されていましたが、その神徳への信仰が非常に強かったことから、近隣住民が独自に資金を集めて神社の修繕を行うようになりました。 相槌神社の裏手にある山は男山で、神社の脇から出ている参道は石清水八幡宮に続いています。

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京都府

単伝庵(らくがき寺)

単伝庵(らくがき寺)
単伝庵寺院はらくがき寺、つまり「落書きの寺院」として一般に知られています。ここに安置されている大黒天に願い事をより良く見てもらえるようにするため、参拝者が大黒堂の内壁に直接願い事を書くことは、この寺の珍しい習慣になっています。これは、小さな木製の平板に願い事を書いて神社や寺院のお堂の外に掛けるという、より一般的な習慣の代わりとなるものです。 大黒天は財福の神様であり七福神の一柱です。単伝庵にある小さな像は、走り大黒、つまり「走っている大黒天」と呼ばれていますが、それはこの大黒天が足を踏み出しているように彫られているためです。寺の伝説によると、この像は、著名な武士・武将である楠正成(1294?~1336)が戦の勝利を祈願して近隣の石清水八幡宮に寄進した楠木の一部から作られました。 単伝庵の起源は不明ですが、現存する記録によると、1711年に臨済宗妙心寺宗派の僧侶である瑞応(1664~1734)によって再建されました。この寺院は何度か移転され、20世紀初頭には荒廃してしまいました。地域からの支援と寄進により、1950年代に現在の形で復興しました。

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飛行神社

飛行神社
飛行神社は、日本の航空の先駆者である二宮忠八(1866~1936)によって創建された比較的新しい神社です。 忠八は、幼い頃に空を飛ぶことへ興味を持ち始め、それは生涯を通してずっと続きました。20代で看護卒として勤めていた頃、彼は自然から着想を得て、固定翼の「カラス型飛行器」を製作し1891年にはその飛行に成功。また、尾翼がなく人が乗れる複葉機モデルである「玉虫型飛行器」を作りました。忠吉は、有人飛行機の製作資金を得るために何年も製薬会社で働き努力しました。彼は八幡で試作機の製作を始めましたが、完成前の1903年に、ライト兄弟が動力付き重航空機の制御飛行を世界で初めて成功させました。 航空分野の進化に伴い、飛行機関連の死者が増加することを憂慮していた忠八は、神職になり、1915年にこの神社を創設し、飛行神社すなわち「フライトの神社」と名付けました。中央の祭壇には、空の神様である饒速日命が祀られています。左側の祭壇には、日本の製薬業界の偉人が祀られています。右側の祭壇は、航空事故で亡くなられた御霊と航空の開拓者が祀られています。世界は同じ空の下でつながっているという信念に基づき、飛行神社は国籍に関係なくすべての犠牲者を祀っています。 この神社には、スケッチ、凧、写真、そして飛行機の模型を含め、忠八と彼の発明に関連する品々を収蔵する小さな資料館があります。

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神應寺

神應寺
神應寺は、その近隣にある石清水八幡宮を建立した行教律師によって860年に創建されたと言われています。このお寺は元々、日本の伝説的な第15代天皇である應神天皇の御牌所として建てられました。 神應寺は室町時代(1336~1573)から曹洞宗の寺院です。ここは豊臣秀吉(1537~1598)や、徳川家康(1543~1616)をはじめとする徳川将軍などの権力者たちから崇拝されてきました。 本堂には、医学と治療の仏様である薬師如来の像が安置されています。また、衣冠束帯の豊臣秀吉像や、国指定重要文化財である平安時代(794~1185)初期の行教像もあります。行教像は元々、石清水八幡宮がかつて神道と仏教を融合して信仰する神仏習合の場であった頃、石清水八幡宮に安置されていました。1868年の政府の命による神仏分離が行われた後、神應寺に移されました。 神應寺の奥の谷には奥の院と称される数棟のお堂があり、その中の一棟では仏教の明王である不動明王が祀られています。また、「ひきめの滝」で滝行を行うために奥の院を訪れる参拝者もいます。

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善法律寺

善法律寺
善法律寺は、男山のふもとにある律宗の仏教寺院です。境内にある約100本の美しいモミジの木が、この寺院にもみじ寺(「モミジの木の寺院」)という別名を与えています。善法律寺は、石清水八幡宮がかつて神道と仏教を融合して信仰していた神仏習合の施設であった頃に検校を務めた善法寺宮(キュウ)清(セイ)(またはミヤキヨとしても知られている)によって、13世紀半ばにその菩提寺として建立されました。足利三代将軍、足利義満(1358~1408)の母である紀良子(1336~1413)は、善法寺家の出身で、特にこの寺を積極的にサポートしました。有名なモミジの木の始まりは彼女の寄進したものであると言われています。 京都府指定文化財に指定されている善法律寺の本堂と正門は、それぞれ、17世紀と18世紀に建てられました。本堂には貴重な像やその他の芸術作品が数多くありますが、最も有名なのは、この寺の本尊である八幡大菩薩の像です。この像は元々、地蔵菩薩像として平安時代(794~1185)に彫られましたが、後年、八幡大菩薩を表したものとして信仰されるようになったと言われています。この像は、神道と仏教の神仏習合の時代に石清水八幡宮に祀られていましたが、1868年に政府の命令により両宗教が分離されたとき、善法律寺に移されました。寺宝の多くは、八幡市指定文化財に指定されています。

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正法寺

正法寺
正法寺は、17世紀の寺院建築の保存状態の良い例であり、注目に値する像、絵画、眺めの美しい庭園があります。この仏教寺院は、鎌倉幕府を創立した源頼朝(1147~1199)の家臣である志水氏の菩提寺として1191年に建立されました。1546年から、正法寺は後奈良天皇(1497~1557)の命により、国の安全と繁栄を祈願する役目も任されました。 正法寺は、徳川初代将軍である徳川家康(1543~1616)の側室となった志水家の娘であるお亀の方(1576~1642)の大きな恩恵を受けました。本堂、大方丈、唐門は1630年にお亀の方の寄進で建てられ、国指定重要文化財に指定されています。本堂には鎌倉時代(1185~1333)の阿弥陀如来像が本尊として祀られており、本堂の塗装された木造の内部は今でもほとんど元の色を保っています。大方丈と書院には中国古典と自然をテーマにした襖絵が飾られており、寺院の裏庭は京都府指定名勝です。近くにある八角形のお堂である八角堂にかつて祀られていた阿弥陀如来の大きな像は、2008年に保管のため正法寺の法雲殿というお堂に移されました。 この寺院は通常一般公開されていませんが、年に数回の特別な機会に訪問することができます。

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八角堂

八角堂
八角堂は、かつて神道と仏教を融合して信仰していた神仏習合の施設だった石清水八幡宮の一部であった主要な仏教関連の建物の中で、唯一現存しているお堂です。この8つの壁面を持ったお堂の建築様式は比較的珍しいもので、それは正八角形ではなく、壁面の幅は全部が同じ長さというわけではありません。このお堂にはかつて、石清水八幡宮の本殿に今も祀られている八幡神と強い繋がりがあった仏である、阿弥陀如来の高さ3メートルの木像がありました。 八角堂はもともと13世紀に建てられたもので、高位の貴族や権力者からの寄進で何度か再建・修繕されました。現在の形となったのは17世紀にまで遡ります。1868年に、明治新政府は神仏分離を命じ、石清水八幡宮から全ての仏教建造物を取り除かなければならなくなりました。八角堂を救うため、近くの正法寺の元住職は、1870年に現在地である古代古墳の頂上にこのお堂を移しました。 国指定重要文化財に指定されている阿弥陀如来像は、1998年から京都国立博物館で展示され、2008年に正法寺へ移されました。 八角堂の元々あった場所と現在地は、かつて石清水八幡宮の境内の一部だったものとして、2012年に国指定史跡に指定されました。

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松花堂庭園・美術館

松花堂庭園・美術館
松花堂庭園には、絵のように美しい景観、伝統的な茶室と茶道(茶の湯)に関連するその他の歴史的な建物、そして美術館があります。40種以上の竹、約300本の椿、モミジ、そしてその他の多くの植物が、22,000平方メートルの敷地内に茂っているおかげで、この広々とした庭園には一年中楽しめる季節のものがあります。 この庭園の名前は松花堂昭乗(1584~1639)という、近くの男山にあった石清水八幡宮寺の寺院の一つに住んでいた僧侶に由来しています。彼は優れた茶師、そして芸術家として有名であり、当時の三大書家の一人とみなされていました。内園には、昭乗の草庵と、彼の隠居寺の客殿があり、内園は国の名勝となっています。 八幡市は、草庵と寺院の客殿の所有権を取得し、これらの建物を保存するため、そして八幡の文化的な遺産の顕彰を目的として、1977年に松花堂庭園を設立しました。茶室建築の進化のさまざまな段階を表す3つの伝統的な茶室の復元が外園に追加され、茶会や文化イベントの開催にも定期的に利用されています。 松花堂美術館の常設展では、松花堂昭乗の生涯と作品に焦点を当てています。その他にも、男山と八幡の歴史・文化に関する作品を展示するさまざまな展覧会を、年間を通して開催しています。

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黒谷和紙会館

黒谷和紙会館
手漉き和紙は800年以上の歴史があり、さまざまな民芸品や工芸品に使われています。
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